関西の名門校帝塚山学院・帝塚山学園は、当社取締役の母方祖々父2代目山本藤助、祖父3代目山本藤助らによって創設されたものであります。
 以下は当社昭和48年発刊「ヨロト百年のあゆみ」の第13章帝塚山学院・帝塚山学園と山本家よりの抜粋です。



2代目山本藤助銅像
3代目山本藤助胸像

1 帝塚山学院創設の背景

 第1次世界大戦(大正3年7月〜大正7年11月)開戦後、わが国は好景気に恵まれ、関西の商工業もとみに発展し、そのため大阪市内の住宅は払底して郊外に居を構えるものが急激に増加した。ことに大阪府下東成郡住吉村帝塚山地方は高台で緑に恵まれ、しかも水がきれいで住宅地としての環境が最も整っていたため、またたく間に新住宅地として開発された。しかし近くに適当な教育施設がなく、新居住者は子女の教育に非常に困惑した。

2 帝塚山学院創設ー小学部開校

 大正5年2月、私立桃山中学校校長であった浅野勇と同校教員の石谷熊吉の両氏は、東成土地建物株式会社役員の山田市郎兵衛、それに八木与三郎、田附政次郎および山本家2代目山本藤助の諸氏に学院創設を提案した。
 この計画は、まず小学校建設を目標に着々と進められ、大正5年8月14日には、山本藤助、山田市郎兵衛、八木与三郎、田附政次郎、山田市治郎の5氏が発起人となり、財団法人私立帝塚山学院の創設認可を文部大臣に出願し、同年12月21日認可された。
 大正6年1月7日小学校校舎建設地鎮祭を、2月25日上棟式を挙行し、その後建設工事も順調に進み、4月4日仮校舎で入学式(1年〜5年生73名、幼児20数名)を行ない、5月12日開校式を挙行した。
 かくて帝塚山の景勝の地に、施設の完備した小学校が開校した。職員は小学部長庄野貞一(桃山中学校教師)ほか7名であった。入学希望者は天王寺、玉出、天下茶屋、大阪市、堺市等から多数に及んだ。
 学院創設当時の役員は、次のとおりであった。

  理 事 長 高崎親幸(前大阪府知事、貴族院議員)
  理   事 山田市郎兵衛 八木与三郎 田附政次郎
        山本藤助(2代目) 浅野勇
  監   事 山田市治郎 久保田権四郎
  常任評議員 石谷熊吉

 なお、大正6年12月には山本藤助が常任理事に就任し、学院の財政、事務一切を統轄することとなった。この時期から山本家と帝塚山学院との関係はいよいよ密接なものとなった。

3 2代目山本藤助、幼稚園舎を寄付

 大正6年12月16日の理事会において2代目山本藤助は幼稚園設立を提案し、その設立費の一切を寄付することを申し出た。この幼稚園創設は大正7年2月14日大阪府知事の認可を得、5月12日、帝塚山学院南華幼稚園として開園した。
 第1次世界大戦後の大正8、9年ごろは物価の騰貴で学院の経営も容易ではなかったが、山本家等の多額の寄付によって経営を維持することができた。かくて学院の理事ならびに教職員の熱心な後援と努力によって、その内容は大いに充実し、学院の名声は日に日にあがり、入学希望者はいよいよ増加した。このため小学部校舎が狭くなり、山本理事は各理事および父兄の有志間をあっ旋して校舎の増築、運動場の拡張に努め、教職員も強化した。 以下略

4 2代目山本藤助、理事長に就任

 大正9年1月、理事長高崎親章氏が死去し、その後を受けて2代目山本藤助が理事長に推薦された。2代目藤助は、その後いよいよ学院経営に精励し、大正10年、講堂、理科室、手工室、屋内運動場、器械室の建設問題が起こるに当たって、父兄有志の代表者を自宅に招いて懇談を重ねるほか、自ら多額の建設費を寄付し、そのため大正11年にはほとんどの施設が完成した。

5 山本理事長、女学部校舎を寄付

 帝塚山学院は幼稚部、小学部ともにその内容を充実し声価はいよいよ高まってきたが、2代目藤助としては、特色ある帝塚山教育の効果をあげるためには、どうしても中学部、高等部、大学部の創設が必要であるとしていた。ことに同地付近には住吉中学校、大阪高等学校、女子専門学校はあったが、高等女学校だけがなかったため、学院出身の女性徒の進学校としての高等女学校開設の必要性を痛感していた。
 このため2代目藤助は、大正14年12月6日の皇孫照宮成子内親王の御誕生を記念し、かつ学院創立10周年の記念事業として高等女学校校舎建設費の単独寄付を申し出た。理事会はこれを受け入れ、ただちに文部大臣に設立を申請し、大正15年3月3日帝塚山高等女学校設立が認可され、同年4月8日仮校舎で開校式および入学式を挙行した。
 一方、鉄筋コンクリート3階建て約1,815平方メートル(550坪)の校舎建設は、大正15年7月18日定礎式を挙行し、9月23日完成と同時に学院への寄付譲渡の手続きを完了した。

6 2代目藤助逝去、3代目山本藤助理事長に就任

 山本理事長(2代目山本藤助)は女学部校舎の定礎式に出席し、自ら書いた定礎の2文字を銅箱に納めて埋め込み、その後間もなく郷里鳥取を訪れ、さらに有馬別邸で女学部校舎の完成を楽しみにしながら静養中であったが、その完成の日を待たず大正15年8月16日逝去した。
 山本理事長の逝去に伴い、3代目山本藤助が理事となり、さらに昭和2年2月理事長に就任し、学院経営の衝に当たることになった。その後、女学部の入学希望者も増加したため、山本理事長は私財を投じて女学部校舎の増築を決意し、昭和4年8月6日、鉄筋コンクリート3階建て2,244平方メートル(680坪)の増築校舎および体育館の地鎮祭を挙行、昭和5年3月完成をみた。 以下略

7 山本理事長(2代目山本藤助)銅像建立さる

 2代目山本藤助が理事長として学院の発展に挺身努力しその基礎を築いた功績を長く後世に伝えたいという庄野校長以下学院関係者の熱烈な要望が実を結んで、昭和5年、山本理事長の銅像建立の議がまとまり、制作を中島保美、黒岩淡哉の両氏に依頼し、台石にはとくに小豆島の花崗岩を使用した。
 この銅像は学院校庭に設置され、同年10月16日の除幕式には関係者数百名が参列し、3女芳子さんによって除幕された。
          以下略

8 「学院建築由来」碑建設

 昭和9年、小学部木造校舎を鉄筋コンクリートに改築することになり、3代目山本藤助は理事長として校舎1棟を、一般から講堂および本館を寄付し、昭和10年11月9日落成式を挙行した。この結果、学院は幼稚部、小学部、女学部を通じほぼ完成した。
 この学院施設の完成に当たって、昭和10年8月3日、山本理事長は次の「学院建築由来」の碑文石を建設した。
          以下略

9 財団法人帝塚山学園設立

 帝塚山学院長庄野貞一氏はかねて、学院は将来大学をも創設して女子教育完成の場とし、新たに中学のほか高等学校、大学までの男子教育機関をつくるべきだとの構想をいだき、その建設地として郊外に土地を求めていたが、昭和15年にあやめ池の西方に近畿日本鉄道会社から土地約27万600平方メートル(約8万2,000坪)の無償提供を受けることを得た。
 この計画に共鳴した3代目藤助山本理事長は建設資金の調達に努力することを約し、鉄鋼報国会の協力を得て50万円を寄付することになり、その資金の一部で用地を買収、近鉄寄付の土地と合わせて55万4,400平方メートル(約16万8,000坪)の広大な土地を確保した。
 かくて近鉄と提携して財団法人帝塚山学園を創設し、昭和16年2月28日学園および帝塚山中学校の設立が認可され、理事長に山本藤助、理事に金森徳次郎、岸本吉左衛門、岡谷惣助、森下博、栗本勇之助、片岡安、蒲田政治郎、庄野貞一の諸氏が就任した。そして園長を庄野学院長が兼任、中学校長に学院女学部主事森礒吉氏が転任した。
 中学校建設は近鉄線に近い3万3,000平方メートル(約1万坪)を敷地として順調に進み、昭和16年4月1日とりあえず仮校舎で開校式を行なった。なお同年7月には第1期工事を完了した。

10 財団理事会の強化

 太平洋戦争の進むにつれて財団理事会の強化が必要となり、昭和18年6月次の諸氏をもって役員を構成した。

  理 事 長 山本藤助
  理   事 久保田権四郎 庄野貞一 浅野勇
        小野虎助 西宗茂二 豊島久七
        田附政次郎 玉井英二
        塚田公太 杉道助 松島鶴松
  監   事 西垣彦次郎 岸本金三郎
  評 議 員 伊藤重義 山本隆三郎 ほか24名

11 短期大学創設に数百万円を寄付

 庄野院長はかねて時代に応じた女性のための高度の教育機関の建設を企図していたが、昭和24年、短期大学制度が発表されるや、同年10月15日、短期大学設立認可を出願し、25年3月15日認可された。4月10日仮校舎で開学式を挙行し、文芸、服飾の2科をもって開校した。
 校舎建築は同年6月に着手、昭和26年5月に完成した。この建築費は一般寄付および借款によってまかなわれることにしたが、山本家からは数百万円の巨費が寄付された。
 なお庄野院長が昭和25年10月9日急逝したので、山本理事長が一時院長学長事務取扱となり、森帝塚山学園長は高等学校長を兼任した。

12 学校法人帝塚山学院に改組およびその後

 昭和25年3月、私立学校の民主的運営をめざす私立学校法が公布されたのに伴い、帝塚山学院においても26年3月14日、学校法人帝塚山学院に改組し、新しい寄付行為を制定した。新役員は山本理事長ほか理事11名、監事には山本鋼業株式会社の西垣彦次郎、山本隆三郎の両氏が、評議員には26名が就任した。
 昭和34年10月20日、山本理事長ほか7名の学院関係者が私学教育功労者として大阪府知事から表彰された。さらに36年5月1日山本理事長は教育功労者として藍綬褒章をうけた。
 一方、昭和36年4月1日には学園に短期大学を開設し、39年にはわが国私立大学ではただ一つの教養学部を持つ大学が創設された。

13 山本理事長(3代目山本藤助)逝去

 昭和39年12月16日、理事長山本藤助(3代目)が急逝し、理事森礒吉氏が法人代表権者に選任された。
 帝塚山学院・学園が、経営財政面における山本藤助理事長の積極的な経営態度と、教育担当最高責任者・学院長・学園長森礒吉氏の熱烈な努力と相まって順調な発展をつづけていた時だけに、山本理事長の死は森院長にとって大きな衝撃であった。森院長は弔詞を贈ってその死をいたむとともに、山本理事長の学院に尽くした功績をたたえている。

14 その後の学院・学園と山本家

 昭和40年3月15日監事西垣彦次郎が死去し、同年8月2日の役員改選において理事に3代目山本藤助夫人アヤが就任し、監事に西垣武彦、評議員に4代目山本藤助が選任された。
 昭和40年8月18日の理事会において、帝塚山学院大学の設置を承認決定し、41年1月25日文部大臣の設立認可を受け、同年3月1日定礎式、4月23日学院大学入学式を挙行した。
 昭和41年11月1日学院創立50周年記念式典を挙行し、同日、故理事長3代目山本藤助の胸像除幕式が行なわれた。
 昭和45年には山本アヤ夫人と4代目山本藤助は南華園の茶室を帝塚山学院大学に寄付し、この茶室を好述庵と名づけ、また欣懐亭の増築、造園などの手を加えて南華苑と称している。
 また45年9月、学院学園両校の監事山本隆三郎の死去の後任として山本保三が監事に就任した。